Teichiku Works Jun Togawa 30th Anniversary
Teichiku Works
Jun Togawa
30th Anniversary
TEICHIKU WORKS について
私の数ある仕事の中でも、テイチクでの作品をまとめたBOXを作るという計画が立ち上がった時、初期段階では別の構想がありました。新しい制作物として、ジム•オルーク(ex.ソニック•ユース)に『ヤプーズ計画』をリミックスしてもらうというものでした。ジムは前から私のファンを自称してくれていて、実際、ニューヨークに行った時に本人にその計画を話したら、OKしてもくれたので「できあがったら面白いものになりそう」と楽しみにしてたんです。「それが実現したら、あれをBOXに入れてもかまわない」……それがこのBOX にヤプーズ『大天使のように』を収録することを認める、私から提案した交換条件でした。
ところが、『ヤプーズ計画』のマルチトラックのテープが見つからなかったのです。これで『ヤプーズ計画』のリミックス盤をボーナスCDとして付ける、BOXの当初の構想はなくなりました。「じゃあ『大天使』はなしね」というのが最初の条件だったのですが、「BOXだからやはりコンプリートしてほしい」というまわりの要請がありまして、結局『大天使』を収録することにしました。しかし、私が『大天使のように』をBOXに入れるということに、それほど抵抗があったという事実を、皆さんに知っておいてほしかったのでここに書きました。
ジム•オルークのボーナスCDはなくなりましたが、その代わりに未発表映像を入れた特別編集のDVD(「TEICHIKU WORKS LIVE DVD」)が付くことになりました。ゲルニカが演奏している映像というのは、特に珍しいかもしれません。もっとも、初期のゲルニカの雰囲気とは全然違います。初期は全然、あんなに余裕はありませんでしたからね。私の動きも違いますし、もっと神経症的と言われ、自分でも認めていました。このDVDには、初出しのヤプーズの映像もあります。ファッションに関しては、私はずっと流行を追わないでやってきました。だからこの汐留PITの映像を今観ても、あまり古いという感じはしないと思います。流行を追うと、絶対古くなると思ってきたのです。むろん、ああいうファッションが当時流行ったわけじゃありません。むしろ、そういう格好をしている人は今のほうが多いかもしれませんね。
表紙の写真は、ゲルニカの「電離層からの眼指し」で小さく使ったものですが、太田さんにお願いして、無声映画時代のハリウッド女優「セダ•バラ」や、女スパイ「マタ•ハリ」のような格好がしたいと、ほぼ自分でコーディネイトさせてもらった唯一のものです。扇とブレスレットは、カメラマンの私物で、蛇がとぐろを巻いているブラジャーなどの金属は大中で借りたもので、その他のほとんどは私物です。ジャラジャラのチェーン•ベルトは、ソロ時代の「遅咲きガール」のPVやその頃のツアーで着用したもので、頭につけているのは、ビーズの付け襟と母親のペンダントです。裏表紙の写真の衣装も全て自前です。ここで私が持っている刀は実は忍者の刀で、両刃なので普通の刀と違って刃がそっておらず、まっすぐになっています。衣装は軍の払い下げの物です。
ゲルニカ結成と「右翼思想」
私は、上野耕路さん、太田螢一さんとのユニット、ゲルニカのヴォーカリストとして、細野晴臣さんのプロデュースで、アルファのYENレーベルから『改造への躍動』でデビューしました。作曲は上野さん、作詞が太田さん。いわば2人が演出家、脚本家で、私は女優のような立場でそこに参加していました。「君を見ていると、歌詞のイメージが沸く」と言って、太田さんは私が歌うのを想定してゲルニカの歌詞を書いていました。太田さんの歌詞じゃないと上野さんは曲が書けなかったと言っていたし、上野さんの曲は私の声を活かすように書かれたものでしたので、とてもよい循環があったんです。ゲルニカの歌詞や曲を活かせるのは、自分だけだって私も思ってましたね。
ゲルニカでは、太田さんが「僕はイタリア未来派だ」、上野さんが「僕はドイツ表現主義だ」と言ってたので、「てことは、私はロシア構成主義あたりかな?」と思っていたら、「君は大日本帝国主義だ」と言われました。「それだけ芸術と関係ないじゃないですか?」と言ったら、「まあまあまあ三国同盟ってことで」とわけのわからない説得のされ方をしました。私をイメージして書いたという詞が、どうして「潜水艦」や「大油田交響樂」になるのかわかりませんでしたけど (笑)。もちろんこれらの詞は、太田さんの世界で書かれたものです が、当時の私はちょっと右翼がかっていたんですね、若気の至りで。 「戦争が始まったら零戦に乗りたい」とか「女に生まれたから“銃後 の守り”になっちゃうのかな」とか「防衛大に行きたかった」とか。防衛大は当時、女子は受験できなかったんですけどね。今なら反戦運 動家の人たちに怒られちゃいそうだけど、当時の私は普段からそういうことばっかり言っていたんです。あの2人がそれ聞いてゲラゲラ笑ってましたから、それで「三国同盟」の話になるんですね。
太田さんが書いた歌詞にはナショナリズム的なアイテムが出てきますが、ゲルニカには思想的背景は何もありませんでした。「潜水艦だぞ」と言ったって、子供がチャンバラごっこで遊ぶみたいなものですから。でも、ゲルニカ時代はいつも、「ふざけずに、やるならメッセージ•ソングをやれ」って、右の人たちからも左の人たちからも言われるんじゃないかと思ってました。それでもなぜ、メッセージ•ソングでもなくやっていたかと聞かれれば、「こんなの絶対売れないだろう」と思っていたからです。
そのころは、私自身、70年代的なものが苦手だったんです。私はヒッピーっぽいものとか「アングラ」的なものは苦手でしたから。上野さんや太田さんは、若干思想的には左寄りだったんでしょうけど、当時それは普通のことでした。「新宿ロフト」や「渋谷屋根裏」にいるのはパンク•バンドが多くて、パンクは70年代のヒッピー文化に対するアンチとして出てきたものだから、左っぽくないのかなと少し期待していました。ですが、日本の初期パンクの流れには、左翼思想の名残りがまだあったんです。全共闘が挫折して10年しか経っていなかったし、三里塚闘争はまだ続いていました。ヒッピーや「アングラ」嫌いの私は、そういうパンクの人たちとは違っていたわけです。だから、細野さんから「ゲルニカをメジャーで出さない か?」と言われて、上野さんと太田さんがそれに同意するのを見て、私はホッとしました。「アングラ」にならなくてすんだとおもったのです。まあ、YMOのメンバーの方々も、世代として、思想的には左がかってらっしゃったとは思いますが、音楽にそれが出てませんでしたからね。生意気かな。
かといって右翼的なメッセージ•ソングをやるつもりもない。ゲルニカにはもともと右翼的なメッセージなんて、一切なかったです から。思想的な背景はまったくないんです。けれど、そういう右翼的なアイテムが歌詞に出てくることで、なにか精神が高揚するようなところがありました。当時の私はどこへ行くにもタクシーで移動していたのですが、タクシーの中で軍歌を聴きながら「さあ、今日はバンドだね!」「ライブやるわよ!」と思いながら、ゲルニカのステージに上がっていましたね。
基本的にゲルニカって、笑いがあるんです。音楽性だけではなく、太田さんによるスタイリングにしても、菊池寛みたいな格好だったり、武者小路実篤みたいなチョビ髭つけたり。上野さんが後のインタビューで「すごくイヤだった」と言っていましたが、当時は楽しそうに見えたんですけどね。私は恥ずかしい時もありましたけど(笑)。私、グレーのひだのある横に広い提灯ブルーマーを履かされたことがあるんですよ。足袋を履いて、大正時代や昭和初期の女学校の体操着というか、サーカスの玉乗りみたいな。
初期ゲルニカの「ライブの方法論」
太田さんは歌詞と美術なのでステージには上がらず、ゲルニカのライヴは、ヴォーカリストの私と上野さんの2人だけでした。上野さんはシンセで作ったオケを(マイナスワン)テープで流し、キーボ一ドを弾いたり、ヴァイオリンを弾いていました。太田さんが作ったお立ち台があって、東海林太郎が直立不動で歌う時のような古いマイクロフォンを、太田さんが作ったんです。私は毎回、もちろん生で歌うのですが、ハンドマイクじゃないから体を動かせないので、足はそのまま動かさず、手振りとかをしながら歌っていました。上野さんはずっと、お地蔵のように微動だにせず。後期のような余裕のある感じとは違って、初期のライヴの私はとても客観視できるものじゃなかったですね。あがってあがって。
ゲルニカ時代には、私にも機材がありました。2個だけ機材を買いまして、1個はエコー•チェンバーです。フットスイッチを買ってつないで、「ワンダアフオゲル/ヨオレリホウ」(「夢の山獄地帯」)のところで、足でエコーのスイッチを踏んでオン/オフしていましたね。上野さんから「君が自分で使うといいよ」と言われて、自分で買いました。「どこで使ったらいいですか?」と聞いたら、「ヨオレリホウのところがいいんじゃないかな」と言われたので。ヤプーズのライヴの時も、「隣の印度人」の「印度人」のところで踏んでましたね。「電車でGO!」の「GO!」のところでも使っていました。たしか、コーラスとディレイとリヴァーヴに切り分けて使えるやつでした。もうひとつはスネア(ドラム)一個で、ストラップを斜めがけして、スティックを持って映画『ブリキの太鼓』みたいに、本当にカタチだけですけど叩いていました。太田さんから「買えば」って言われて。私はお金があったので、太田さんがスタイリングできない部分があると、私に「買えば」っていうんですよ(笑)。それで、上野さんの曲をジャマしないように使っていましたね。
今回のDVDにはゲルニカのライヴ映像が収録されていますが、これは再結成後のもので、初期ゲルニカとはまったく別ユニットと思っていただきたいぐらい違うものです。初期のゲルニカの私のライヴ•アクトは、あがりまくっていたがゆえに緊張感に満ちた神経症的なものでした。今回DVDに入っているセカンド、サードのころのライヴは、場慣れして声もよく出るようになったぶん、自由におおらかにやっています。でも、もし私が戸川純本人でなかったら、あの怯えきった中で悲鳴のようにベルカント(唱法)のファルセット(裏声)で歌っていたころの戸川のヴォーカルのほうが、見せ物としては面白かったのではないかと正直思います。しかし、今回収録されている時代のもののほうが完成度は高いですし、プロの歌手としても遙かに技量が上だと思うので、どちらがよいかはお客さんの好き嫌いに関わってくるとは思いますが。もし初期の映像が残っていれば、両方収録できればよかったですね。唯一残っているアルファ時代の映像は、リハーサルを撮ったもので、マニアの方が所有されているモノクロ映像もそのリハのものです。衣装替えその他の段取りをさっと通しで撮ったもので、サウンドチェックも兼ねつつ、客入れする前に淡々とやったものです。本番ではないので、やはり当時のライヴとは言えないですね。
ヴォーカリストとしての訓練
もともと声楽はやっていたんです。私は演劇で、腹式発声を3年間やっていたから、それが声楽にも応用できました。ある程度できてたんですが、でも「そういう発声で歌ってはいけません」って言われたことをやっていたのがゲルニカなんです。声楽の人になるつもりはないから、このへんでいいやみたいに、「あー」っていうのを「ニャー」って歌ったり。
私のベルカントの、ヴィブラートのかかったファルセットは、遡れば、中学の時に合唱部にいて、そこから始まってるんですね。中学のときに演劇部がなかったんで、代わりに合唱部に入っていたんです。演劇部があったらそっちに行っていたでしょう。あと、放送部もあったから放送部にも入っていました。NHKラジオの『アナウンス講座』という番組がありまして、入部者が3年間教わる通信講座があったんです。だから、3年間それを受けました。発声は合唱部でやっていて、滑舌は放送部でやっていて、どちらも女優業に役に立ちましたね。将来、歌手になるなんて思わなかったですけど、歌手になってベルカントで歌うような人生を、おのずと選んでいたんですね。
3人の調和がうまくいっていた始めたばかりのゲルニカの時代、上野さんは私のことを「僕の最近の自慢の楽器」と呼んでいました。私が友達の誕生日会の席で歌った「蘇州夜曲」のテープを、上野さんに聞かせて2人を引き合わせてくれた、8½の久保田慎吾くんがナイロン100%で酔っぱらって、「戸川純の第一発見者は僕なのにーっ!」と怒っていたという話を聞いたのは嬉しかったです。でも、「第一発見者」って響きは、まるで水死体みたいですね(笑)。
『改造への躍動』〜「銀輪は唄う」
ゲルニカの最初のアルバム『改造への躍動』は、当時2000円で売られました。デモ•テープをそのまま使ったので、ほとんど予算がかかっていないんです。2、3曲、アルファのAスタジオで新録したものや、デモ•テープでもいくつか歌を入れ直したものはありましたが。ジャケットの裏には、ミキサーが「録音技士」とか、録音場所が「上野家本宅」とか、ちょっとレトロな表記のクレジットがありますけれど、「戸川家別宅」を入れてほしかったですね。実家じゃなく、当時私が住んでいた東高円寺の家に、上野さんが4チャンネルのレコーダーを持ってきて、そこで「夢の山獄地帯」の歌入れをやったんです。デモをそのまま使うのは、細野さんの強い意向がありました。本当は、オーケストラで録り直す話もあったんです。当時はピコピコのテクノが大流行でしたが、ゲルニカはもっとオーケストレーションされたスコアだったし、全然ピコピコしていないので、全然テクノと違うなと思っていたんです。でも、20何年経って聴くと、音色に関してだけは完全にテクノですね。ファーストの、あの「シャー」という神経を逆なでするようなシンセの音が好きでした。私は上野さんの出すシンセの、不協和音と絡めた、神経に障るようなあの曲調が大好きでした。別に悪い意味じゃなくて、まったく聴いたことがない音でしたから。
上野さんには、オーケストラで録りたい意向がずっとありまして、次のシングル「銀輪は唄う」からバックが生のオーケストラになります。私はずっと「上野さんは天才!」って一人で言っていて、上野さんのファンクラブを作り、会員は私一人で。実は「銀輪は唄う」で初めて、オーケストラを上野さんが使った時、演奏が終わったあとに奏者の皆様から、弓とかでトントントンって拍手が上がったんですよ。私一人じゃなくて、みんなに上野さんが認められたと思った瞬間でしたね。上野さんに「もっと喜んでくださいよ」と言うと、本人は「薄氷を踏む思い」なんて照れていましたが。幸せに対して臆病なところがある人なので。この時に、「ゲルニカはオーケストラでもイケるのだなあ」と証明されたことが、ゲルニカの2枚目、3枚目の実現につながっています。「集団農場の秋」(『新世紀への運河』)とかは、短い曲だけどこれは本物の弦や管を使わないとね。デモ•テープじゃ物足りなくて、オーケストラの大げさな感じがとても生きている。短い曲だからますますそう感じます。
ゲルニカはアルバム、シングルが終わって、一旦活動が休止になりましたが、ゲルニカとして、私ではない人が歌うアルバムの計画が持ち上がったんですね。男声ヴォーカリストや別の女の子が入ったり。結局、レコード会社のディレクターも、「戸川純が参加してないのにゲルニカという名前を残すのはいかがなものか」「3人いるのがゲルニカじゃないのか」という判断がありまして、それでそのアルバムは太田さんのソロ(『太田螢一の人外大魔境』)になったんです。
ゲルニカ活動休止〜ソロ活動へ
ゲルニカは活動休止してしまったけれど、私にもアルファとのアーティスト契約が残っていました。ユニットとして、ゲルニカ以上のものはできないと思っていたので、バンドをやろうと思っていました。雑誌でインタビュアーから「次は何をやるんですか?」と聞かれるたびに「ロックです」「えー」って言われてましたね。想像できないって。「せっかくゲルニカをやっていたのに、それじゃ後退してるんじゃないか」とも言われましたが、正直、それしか言えなかったんですね。歌詞を書いたこともなければ、曲を作ったこともないし。でも、いっしょにやろうと言ってくれるメンバーが身近にいたので、その人たちといっしょに、最初の「戸川純とヤプーズ」を作ったんです。いきなりバンド名が「ヤプーズ」では知名度がないから、私の名前を入れて。
上野さんと泉水(敏郎)さんが8½から移ったので、ハルメンズのステージも何度も観てましたし、ファンだったんですね。だからある日、ヤプーズのギタリストの比賀江(隆男)くんがアンプに繫いでない状態でポンポンポーンって弾いてみせたとき、「『隣の印度人』ね?」ってすぐわかりました。それはハルメンズのライヴでやっていた曲で、3枚目のアルバムに入る予定だったんです。ところが2枚目があまりに売れなかったのでなしになっちゃったそうです。「実はこれはプロモーションでもあるんだー」「やんないかー」って歌いながら言うんです。闇から闇へと葬られるより、君に歌ってもらったほうがいいというので、私も「歌わせてくれるんなら歌いたい」って。ちょうど私は、子供みたいな声と、オペラみたいなベルカントと2つの声を持っていて、「隣の印度人」はちょうど合ってると言われたんです。「昆虫軍」も合ってると言われて、どっちもオペラみたいな声が入るから、これは上野さんの許可を取らないといけないなと思って聞きにいったら、許可が取れて「やったー、了解を取り付けたそ」ってことで。でも、メンバーには言ったんですね。「隣の印度人」とかアルバムに入ってない曲はいいけれど、ハルメンズで発表した曲を私が歌うと、私のオリジナルと思われちゃうよって。私もハルメンズの曲が好きでしたが、メンバーもそれを望んだんですね。でも、私は常にいいのかなって思いながら歌ってたんですね、ハルメンズの曲は。
バンド活動を始めたけれど、やっぱり私だけが目立ってしまうために、ゲルニカと同じようなことが起こってしまうんです。リハーサル代に関してだけは、事務所やレコード会社じゃなく、私がお金を出していたんですけど、この時、誰か一人でも「オレ払うよ」と言ってくれたら、「戸川純とヤプーズ」でデビューするつもりでした。でもリハ代を1年間私が出し続ける事になったので、私は戸川純として、『玉姬様』でソロ •デビューすることにしたんです。
ソロ活動時代。そしてアルファへの移籍
「玉姫様」で、『夜のヒットスタジオ』に出た時の反響は大きかったですね。アルファの社員が言ってました。田町駅で電車に乗ったら、座ってる女子高生が「昨日『夜ヒット』見た?」「戸川純ってカワイイよねー」と騒いでいたと。でも、アルファは最初から期待してなかったんです。「玉姫様」もシングルカットしなかったわけですから。プロモーションなんてほとんどしてくれなかったのですが、赤丸急上昇である程度伸びていたので、『夜ヒット』から出演依頼があったんです。実は、地方には発売日の前の晩から売っているレコード店というのがあって、発売日の午前中に『玉姫様』が全部売り切れてしまったんです。潜在的なファンがいてくれたんですね。ソロを待っててくれた人が、思っていた以上にいてくれた。アルファはたいして売れないと思っていたから、ある程度しか作ってなかったんです。初回プレスをもっと作っていたら、品切れなんかなくもっと売れていたのにとアルファが言っていました。細野さんがソロに曲を書いてくれたことには、とても感謝しています。
『玉姫様』のアルバムの内容については、いろんなところで語ってきたので多くは触れませんが、ふたつだけ。「諦念プシガンガ」についてですが、まず「“プシガンガ”って何?」と聞かれたことがあるので、答えておきます。“プシガンガ”というのは、ペルー語かなにかの「歌い踊る曲」という意味です。オリジナルは私が持っていたアンデス民謡のLPレコードに入っていた曲で、LPの裏側を見て「プシガンガ」だと思っていたんですけど、実は一列間違えていて、原曲は「よっぱらい」というタイトルの曲だったんです。後でレコード会社のディレクターが許可を取ってみたら、それが違う曲だとわかりました。でも、アンデス民謡だからみんな似たようなもので、全部、お酒を呑んで歌い踊るみたいな曲なので、「まいっか」ってことで(笑)。2番に出てくる「空に消えゆくお昼のドン」という歌詞の「お昼のドン」は、ファンが書いたネットの書き込みに「原爆のこと」とあったらしいんですが、それはまったくデタラメです。炭坑で、お昼の12時が来たことを炭坑夫に知らせるために、昔は空砲を空に向けて撃ってたらしいんですね。それを炭坑夫の人たちやその村の人たちが「お昼のドン」と呼んでいた。確か、小説かなにかでその言葉を知ったのですが、空に向けて撃つ空砲の、音や煙が消えていく空しい感じを表現したくて使ったんです。「お昼のドン」を「ピカドン」のドンだと書くのは、被害者の会の人に怒られてしまうので、やめてほしいですね。解釈するのはかまいません。作品なんていうのは、出しちゃった瞬間から他人の物ってところがあるから。聴いた人の物になるのは宿命だし。だけどそれを、私の言葉のように広めるのはやめてほしい。表現の解釈を制限してしまいますから。原爆だと思うんだったら、一人で思っていてほしいですね。
私はYENレーベルがなくなったあとも、自分のレーベル「HYS」を作ってもらったりして、アルファレコードとの契約は続きます。けれど、レコード会社との関係は、けっして良好ではありませんでした。ゲルニカが休止して、最初にソロになるときにも、松任谷由実さんや中島みゆきさんに曲を書いてもらうと言われたり。それを断り、低予算で私自身がプロデュースし、ある程度売れたので、その後はずいぶん好きにやらせてくれたと思います。でも、「ああもう取り返しが付かないな」と思うことがあったんです。私はアイドルと言われたり、アーティストと言われたりして、自分では両方のいいところを取り入れられたらと、贅沢に思っていたんですね。「さよならをおしえて」のシングルがリリースされたころですが、私は家で音楽雑誌を読んでたんです。そしたら、「バレンタインデーにシングル発売記念として、純ちゃんが店頭でカレーパンを配るぞー、何月何日どこで」って書いてあったんです。レコードの発売日も2月14日じゃなくて、微妙にずれてるし。驚いてすぐにアルファに電話して、「聞いてないですよ、どういうことですか?」って聞いたんです。それを企画したのは新人の営業マンで、上司から謝れって言われたから謝る、という態度で謝られて、私はアルファの中ではただのアイドルだと思われてるんだなって。ちゃちい人形とか、変なノヴェルティを勝手に作られそうになったり。アイドルに見えても、アーティスト性を大事にしたかったら、そんなこと思い付かなかったと思うんです。その人というより、その人を通してアルファの考え方がわかってしまったことがショックでした。もうちょっとなんか、気が利いてひねりがあれば話もわかるのですが。バレンタインと何かを引っかけるようなロマンチックなものだったり、私が納得のいくようなものだったら違っていたと思うんです。何と言っても、私の許可なくマスコミに情報を流すなんて。特に「バレンタインにカレーパン」は強烈でしたね。奇をてらえばなんでもいいのかと。ゲルニカがロシアの民族衣装着てピロシキを配るんなら、まだ話がわかるじゃないですか(笑)。
ヤプーズとしてデビュー
テイチクに移籍して、バンド名を「ヤプーズ」に改めたのは、すごくいい状況ができていたからですね。バンドとしてやりたいってみんなが言ってくれたのが、私はすごく嬉しかった。私自身もヤプーズを一個のバンドにしたかったからです。私はヤプーズの1ヴォーカリストで、役割は人数分の1。私がワンマンでリーダーみたいな、ソロみたいな感じじゃなく、発言権も人数分の1みたいな感じで、そうやってできたのが最初のアルバム『ヤプーズ計画』です。とはいえ、歌詞を沢山書いていたので、コンセプト•リーダーではあったから、曲調やイメージも以前とは大きく変えたいと思ったんですね。「バーバラ•セクサロイド」はヤプーズのイメージソングにしたくて、007みたいなスパイ物をヒントにして、「パパパパパパ」と管を入れてくれとお願いしました。ファッションも180度変わりました。昔テレビでやってた連続ドラマの『パットマン』に出ていた、美人っぽい悪者みたいな。あるいは、『ヤッターマン』のドロンジョとか『タイムボカン』のマージョ様みたいな、ああいうきれい系なんだけど悪者みたいなイメージですね。
私はもともとコカコーラの瓶みたいな体型をしてるんで、それが恥ずかしくてね。テクノには合わないんですよ。もっとスレンダーで、ユニセックスなイメージがあるでしょ、テクノには。私はそういう体型じゃなかったからずっと隠していたんですね。私の体型がやってる音楽に合わないなって。ゲルニカのときはドレッシーな格好をしてたし、ソロでも巫女さんの格好をしたりランドセルを背負ったりしていましたから。でも、『ヤプーズ計画』で初めて体の線を出したんです。ロック•バンドに於ける女性ヴォーカリストって何だってイメージしたとき、ランナウェイズのチェリー•カーリーを思い出して、「よし、あれにしよう」と。あの人は黒いショーツだったけど、ショーツはイヤだと思って。でも、ガーターベルトはいいなと思って、それでホットパンツを併せてね。でも慎重にやってましたね。赤い口紅やマニキュアは塗らなかったし、ブーツ履いてるし。本当に下手すると水商売っぽくなるんですよね、日本人がやると。チェリー•カーリーは金髪娼婦のイメージだったけど、私は髪を茶に染めることはしなかった。そのころの茶髪って今と違って、’70年代っぽかったんです。とにかく、ホステスさんっぽくならないように気をつけていましたね。SFですからね。
『ヤプーズ計画』
バンドになったのは、ソロで自分でできることは全部やり尽くしたからなんですね。共同作業の中からなら、新しいものができるんじゃないかと思って、ヤプーズというバンドになったんです。自ら率先してPV作ったり、衣装を決めてやったけれど、「肉屋のように」なんかは、自分一人のソロでは絶対できなかった。「肉屋」のときは、とてもプラスのバトルがあったんですよ。「ヤプーズは曲先だった」と言うとみんな驚くのですが、私は歌詞を書く時に字数をかっちり合わせることだけは才能があると自負しているので、曲先だってわからない人も結構多いんです。「肉屋」は最初、あの曲が上がってきた時、どんな歌詞にすればいいんだと思って、とりあえず書いて持って行ったんです。じゃあ試しに歌ってみようかって仮歌を入れたら、次の日、後からあの「ギャーギャー」ってストリングスがプラスされていて、今度は自分もさらにそれに負けずに歌っているから、どんどんハードルが高くなっていった。そうやって「肉屋のように」ができたんです。中原さんはそのころ、野宮真貴ちゃんとバンド(ポータブル•ロック)をやっていたから、まるで違う自分の世界を出したかったみたいです。
そのころカラオケボックスができはじめて、「肉屋のように」があるというので、みんなでカラオケを聴きに言ったことがあるんです。「アレはオレの楽器じゃないと絶対出せない」とか言ってたのですが、「おお、うまいうまい」なんて誉めてましたね。『ヤプーズ計画』では、アナログ•シンセサイザーを多用しています。あの時期にすでにコンピュータを使ってましたし、「スピーク•スペル」(合成人声を使ったアメリカの「スピーク&スペル」という知育玩具)なんかも使ってました。方法論はテクノだけど、でも軟弱な音じゃない。厚くて重い音を出したいという気持ちがみんなにありました。それまで、テクノと言ったら「ピコピコ」がほとんどでしたから。「肉屋」や「コレクター」のヴォーカルは、絶対テクノには出てこないような歌い方をしてましたし。
『ヤプーズ計画』の時は、本当に打ち合わせというものをしませんでしたね。メンバーの誰かの家に集まっても、みんなプロレスの話をしてるかゲームをしてるか。私はそれまでプロレスを全然知らなかったのですが、メンバーが全員好きだから詳しくなっちゃいました。中原さんがいちばんプロレス好きなんじゃないかな。後にサポートでギターを弾いてくださった平沢(進)さんも、「長州力のテーマ」(「パワー•ホール」)を書いてますよね。あれだけシンセシンセしてるんですよ。当時は、コンピュータ、データを、「コンピューター」、「データー」とも表記してたんです。ちょうどその時、「バーバラ•セクサロイド」の歌詞を書いていて、「あなたのデータをロードしたわ」のところを、「データ」にするか「データー」にするか迷ってました。当時メンバ一間でゲームが流行っていて、その中に「データをセーブします」と出てきたので、それで「データ」にしました。今でも「あなたのデーター」にしなくてよかったと思いますね(笑)。
歌詞と言えば、「ラブ•クローン」も最初は「ジャップ•カー」というタイトルでした。歌詞も「悪者顔で走れイェイイェイ、ジャップ•カー」だったんです。サビが「大金持ちで嫌われ者の弓状の島〜」って。当時、日本って経済成長のピークで嫌われ者の国だったから、ワーカホリックだと蔑まれたり憎まれてて、バッシングされてても金持ち国で、世界中に日本車が走っている。憎まれっ子世に憚るみたいな。ジャップという蔑称を使って、ド頭が「三原色の光を放ち/秋葉原は燃えているアハハン、ジャップ•カー」「西新宿は燃えている」とか(笑)。ヨドバシカメラの袋を下げて、「一番」とか書いたTシャツを着てる外国人がいっぱいいたじゃないですか。それで「ジャップ•カー」でリハをやっていたんですが、自分で風刺が入るのに抵抗があって、「ラブ•クローン」という歌詞を書いて作曲者に見せたら、「オレこっちのほうが好き」というので、私もよかったーと思って、「ラブ•クローン」になったんです。
「宇宙士官候補生」も、作曲者が作詞もしたいというので、いいよということで今の歌詞になったけれど、私が書いた歌詞もあったんですよ。「ロボトミーへようこそ」というタイトルで、「時、溶かしていくよ、謎と希望の星までのところが」「脳の一部にレーザーメス」って歌詞で。ロボトミーというのは、記憶の一部を消去して感情を抑えるようにするかなりインチキで危ない手術のことですね。それで、失恋をしてとても辛くて、その記憶を消したいと願う歌詞でして、Bのところが「あの夏の浜辺で戯れたことを忘れてしまうけれども仕方ないわ」とかいう叙情性を入れたりね。
『ヤプーズ計画』のボーナストラックに入っている「セシルカット」は、「バーバラ•セクサロイド」のシングルのカップリング曲です。もともと杏里さんが歌ってた曲(『悲しみ色の孔雀』収録)で、曲は当時ヤプーズの比賀江くんが書いたものです。まだ「キャッツアイ」とか出す前の話で、杏里さんがまだああいう路線になる前のこと。「セシルカット」は歌いたくないって、杏里さんに泣かれちゃったんだって(笑)。泣かれた比賀江くんもかわいそうだけど。これも「隣の印度人」と同じで本人にプロモーションされたんです。聴いて大好きになりました。キーボードの吉川洋一郎さんがアレンジをまったく変えて、ディズニーみたいにしたいと言ってましたね。『ヤプーズ計画』には、「それはそれはエロ•グロ•イノセンス」というキャッチコピーがあるのですが、終戦後の闇市の時代に流行った「エロ•グロ•ナンセンス」という言葉があって、それをもじって付けたものです。「バーバラ•セクサロイド」はエロで、「肉屋のように」がグロ、それでイノセンスは「素敵な時間」や「セシルカット」というイメージかな。
ビデオ『ヤプーズ計画』
ビデオ•クリップも、これでヤプーズを定着させることができるから、ヤプーズのキャラクター•イメージを映像で作ろうと。それで「バーバラ•セクサロイド」は『007/ゴールドフィンガー』のパロディにしたんです。
DVD『ヤプーズ計画LIVE&CLIP+2』にはその時に作った映像が入っています。金粉を全身に塗りまして、あれは2時間経つと皮膚呼吸できなくて窒息死すると言われたので、2時間チョイ前に撮り終えて。金粉を落とすのも2時間もかかりましたね。一人ディレクターが付いてくれましたが、「バーバラ•セクサロイド」は基本的には監督はヤプーズです。メンバーにも、こういうことをやってくれと頼みました。難しい演技はイヤだというメンバーには、2階から降りてくれるだけでいいからとお願いして。ちょっと芝居ができそうな人には、火薬を入れて撃たせるみたいな。みんな撮影は結構楽しそうだったし、荒編集(ラッシュフィルム)ができてきて、『ヤプーズ計画』のレコーディング中にスタジオでいっしょに観て、みんなゲラゲラ笑っていたから、金粉塗ってやった甲斐がありましたね。メンバーの名前をテロップで入れるとか、「カラーで撮ってソラリゼーション処理してから白黒で繫いで」みたいな、編集もやったんです。曲はもちろん、コンセプトも私の格好もとてもうまく合ったので、それ以降のヤプーズのアルバムでも、必ず1つはスパイ物を入れるようになったんです。
この時の衣装もすベて自前です。「労働慰安唱歌」で着ているのも実はブランド物で、持っているドライフラワーの稲穂も家にあったもの。頭に被っている傘だけ、マネージャーが大中で借りた物です。「Daddy the Heaven」で、当時一部で普及し始めたへッドセット(マイクロフォン付きヘッドフォン)を使って、両手をあかせて何か動くライヴアクトをしたいなと思い、ヤプーズの初期のマークの入った旗を振ることにしたのですが、ステージの床にスモークをたいていたので、旗を振るたびにせっかくのスモークが旗の風の勢いで拡散して床が見えてしまい、ハラハラしました。同曲では海辺のシーンがありますが、その日はすごく晴天で、メンバーに編集スタジオで「旗を持って踊っている」とずいぶん笑われてしまったので、引きの絵とアップだけにしてアンバーな色味にして、せっかく晴天だったのを曲調に併せて、タ焼けみたいにしました。
ゲルニカ再結成のいきさつ
ゲルニカの再結成は、ヤプーズが活動を開始した年の翌年、88年のことです。妹の京子が道ばたでたまたま上野さんに会ったらしく、「上野さんが連絡取りたいからって、電話番号聞かれたから教えといたよ」と聞かされて。何かあるのかしらと思っていたら、上野さんから電話がありまして、何度か会ううちに、ゲルニカ再結成の話を持ち出されたので、私もやりたいと思って再結成しただけなんです。上野さんが言うには、ゲルニカの印税がどっと入ってきたというんですね。全部作曲は上野さんですから。実は『玉姫様』を出してから、またゲルニカも売れ始めたんです。それで、上野さんが「がんばってるなあ」と思ったんですって。
伊福部昭さんに会った時、「ゲルニカはもうやらないのかい?」と言われたと、上野さんがインタビューで答えていたそうで、それは私も嬉しかったですね。以前、TOTOのCMを始めたばかりのころですが、ヒカシューの井上誠くんから「今度、伊福部さんのところに遊びに行こうよ」と誘われたことがあったんです。「奥さんが純ちゃんに似てる」と言っていて、お会いしたら小柄でジュリエッタ•マシーナのような方でした。私も太田さんに、「ジュリエッタ•マシーナに似てる」と言われていたんです。お2人が結婚したのは、お見合いで初対面する前に婚約しちゃうみたいな時代だったらしくて。「ウチの庭に、サーカスの玉乗りみたいな格好をした女性が来ていると思ったら、それが僕の許嫁だった」って。そんな感じの縞々のズボンを穿いていたんですって。それも私に似ていると思ったらしい。「伊福部は、戸川さんのことが……」と奥様が言うと、「よしなさい」って(笑)。TOTOのCMを見て「この子はかわいいなあ」「なかなかいい女優さんになると僕は思うよ」と言ってくださっていたんですって。うれしかったー。その後から井上くんに、ゲルニカのヴォーカルの人だと聞いてビックリしたらしい。TOTOのCMの私とゲルニカの私が、イメージ的につながらなかったみたいですね。当時、女優として初めてのレギュラーのドラマだった『刑事ヨロシク』のおつや役と、ゲルニカの私の両方のファンだった人がけっこういて、ある日2人が同一人物だと気づいて感激しましたってファンレターを何通ももらいましたね。女優だから、演じてるわけです。ゲルニカはゲルニカで演じているわけですし。
上野さんはゲルニカの新しいレコード会社探しは難航したと書いていましたが、私の記憶ではわりとすんなり行ったはずです。肖像権からなにから、ヴォーカリストというのは他のメンバーよりも制約があるんですね。契約アーティストになると、他のレコード会社からは出してはいけないというルールがあったり。ヤプーズのキーボードの吉川さんが籍を置いていた「N2」という事務所があって、ヤプーズはここで面倒見てもらっていたのですが、ゲルニカもウチでやりたいという話になって、「N2」が采配して、私がすでに契約していたレコード会社、テイチクに決まったんです。
テイチクという響きはゲルニカにすごく合ってると思いましたよ。演奏も「テイチクオーケストラ」にやってもらえるとかね。テイチクという社名も昔のロゴを使ってほしいと言って、ジャケットにも入れてもらいましたね。
『新世紀への運河』
「少年の一番の友」と「クラウド9」は、私がパルコパート3でやった『クラウド9』というアメリカの現代演劇があったのですが、その音楽を上野さんがやってたんです。演出家の木野花さんが私を経由してゲルニカを聴いて、それで上野さんに音楽を頼んだらしいです。「クラウド9」は、劇中でバックに掛かっていた曲。「少年の一番の友」は、上野さんのカラオケを流して生で歌う劇中歌だったんです。ちようど再結成と同じころにやった仕事で、その流れで入れることになったと聞いています。
「輪転機」という曲は、「戦後のジャズの感じで」ということで、笠置シヅ子を意識して歌いました。ジャズの感じと言ってもスウィング調の曲でしたので、レコーディングではリズムに乗りながら楽しく歌入れできましたね。「集団農場の秋」は私の大好きな曲で、かつて上野さんが当時のレコーディングを回顧して、「どんどん変わるテンポにきっちりタクトを振った指揮者の方の素晴らしさ」について語っていましたが、あの時の歌入れは後日ヴォーカルブースでやったものなので、そのタクトも見ずに一発で歌入れオッケーだった私のことも、上野さんもっと誉めて誉めてーって感じでしたね。
最後に入っている「絶海」は、珍しく上野さんから「ゲルニカでも、君の好きな007をやってみたら」ということで、『007は二度死ぬ』の主題歌(ナンシー•シナトラ)をパロって、イージーリスニングみたいな曲調にしてできた曲です。当時、ヤプーズ「バーバラ•セクサロイド」でも、『007/ゴールドフィンガー』を意識したPVを作っていましたが、ヤプーズとゲルニカの間に「007」という意外な接点があったことは、貴重な事実だと思ったのでここに書きました。
『大天使のように』
ゲルニカのセカンドを作った後の作品ですが、前年の『ヤプーズ計画』の後にビデオ(『ヤプーズ計画LIVE&CLIP』)もやっているんですね。その間、ヤプーズもゲルニカもツアーをやっていますし。女優もやりながら、初めての短編映画監督(91年公開のオムニバス映画『ワンルーム•ストーリー』の第3話「いかしたベイビー」)もやり、『ヒットスタジオR&N』の司会も続けていました。それでへルニアを悪くして入院したんです。
それでもなんとかやれていたのは、ヤプーズが(ソロではなく)バンドだったからですね。これだけやりたいものが出せたんだから、私は恵まれていたと思います。ただ、『大天使』だけは、個人的に私のワーストワンになりました。制作時のことというよりも、できあがった結果が、ですね。メンバーには申し訳ない。イヤな言い方になってしまいますが、曲も詞もあまり好きになれない曲が多いアルバムになりました。もちろん好きな曲もあります。特に好きな曲はと聞かれれば、「憤怒の河」「森に棲む」「去る四月の二十六日」など。でも、初めに言った通り、今回のBOXではできればとても外したかった。「なかったことにしたいアルバム」です。
『ヤプーズ計画』が、打ち合わせというものをまったくせずにできてしまったから、この時もミーティングというものをそんなにしなくて、持ち寄った曲で作ってしまったところがあるんです。好き勝手に作ってもトータリティは生まれると、高をくくっていたんですね。でも、あまりにもバラバラすぎるんです、『大天使』は。詞を書く人が3人いたということもありますが、私も詞が書けなかった時期だったから、「それじゃあ、ぜひ」という感じだったもので。曲もバラバラ、歌詞もバラバラ。私自身、歌い方も好きではないんです。それまで、ゲルニカでもヤプーズでも、レコードは緻密に作って、ライヴではレコードでできないことをやっていたんですね。例えば「コレクター」(『ヤプーズ計画』)なら、レコードでは多重録音でヴォーカルを重ねて作っているけれど、ライヴのほうでは演奏のグルーヴ感とかノリとかフェイク、シャウトを入れるとか。『大天使』のときは、1曲だけですけどレコードでもライヴみたいな歌い方をしてみようとやってみたんです。それが大失敗でした。やっぱりライヴはライヴのものだと思いましたね。ある意味、試行錯誤していた時期なんです。
「コインシデンティア•オポジトルムー相反するものの一致一」(神学者クザーヌスが提唱した、「人間対機械」などをモチーフにした、マニエリスム芸術のスローガン)という『大天使』のキャッチコピーは、確かに私の全活動を標榜するようなものですが、バラバラなものをなんとか一枚のアルバムに収めた結果、正反対のものが入っているという意味ですね。それしか浮かばなかったんです。おとなしめの曲から、ライヴみたいなアドリヴ系、シャウト系みたいな歌い方もしてるし。曲もピンからキリまで見たいな、曲も詞も歌い方もバラバラなんですよね。あまりにコンセプチュアルじゃなさすぎるというか。話し合いをもたないと、当時の私たちはこうなるんだということがわかりましたね。
「森に棲む」は、以前ソロの「蛹化の女」で虫に変身していますが、ここでは植物に変身していますね。変身願望は昔から強かったですから、「レーダーマン」も、機械に変身するんだと思うと嬉しかったり。変身モノは好きですね。「eins,zwei,drei,vier(1、2、3、4)」と言っているのや、後ろのコーラスはドイツ語です。ヤプーズとしては初めてのプログレっぽいサウンドだし、このテーマの歌詞にはドイツ語が似合うと思ったんです。小滝(満)くんが曲を書いて、私はプログレには抵抗があったけど、これは好きだなあ、きれいだなあと思いまして。普通、プログレってクラシックみたいなニ拍三連とか多いでしょう。「蛹化の女」のときも元がクラシック曲だったので、プログレにだけはしないでほしいと言っていたんです。でもこれは好きで、クラシックを経由したヨーロッパのイメージがあったので、ドイツ語を入れることにしたんです。ヤプーズはけっこういろんな国の言葉を入れてるんですよ。「赤い花の満開の下」(『HYS』)では中国語、「VIP〜ロシアよりYを込めて〜」(『Dadadaism』)は、私が007好きだから『ロシアより愛を込めて』にひっかけてロシア語を入れたんです。かなりデタラメですけどね。あと、「テーマ」(『Dadadaism』)という曲は、ローリング•ストーンズのキース•リチャーズがギターを弾きながら歌っている曲がかっこいいなあと思って、「シュガー」とか「ハネー」とか入れてみました(笑)。「12階の一番奥」(「Dadadaism」)には、「私は不眠症である」「私は拒食症である」という、フランス語でメンバーに男声コーラスを入れてもらいました。ロシア語、中国語、ドイツ語、フランス語と、かなりインチキっぼいけど、ヤプーズでは一通りやりましたね。
「去る四月の二十六日」は、『ヤプーズ計画』の「肉屋のように」「労働慰安唱歌」と同じく、私の声を活かして書かれた中原さんの曲で、私の民謡のようなプリミティヴな歌声とテクノの合体に挑んでいて、とても好きな曲です。間奏のところでギターの比賀江隆男くんが、T-REXみたいなフレーズを変なアレンジで弾いているところが笑えますね。あんまり詞が書けなかったころでしたので、この曲の歌詞は最後に書いたものなんです。「4月26日」というのは86年にチェルノブイリの原子力発電所が爆発した日のこと。当時、『アトミック•カフェ』とか、反核•反戦運動が盛んだったんです。私はゲルニカのころからメッセージ•ソングはやらないと決めていたんですが、この時は本当に詞が書けなかったから。下げたかったテーマではあるのですが、入れることにしました。あえて言うなら、「反原発」「反戦」じゃなくて「反事故」。「もうやめてよ」という歌詞で終わるのですが、「事故はやめてよ」という意味なんです。
ゲルニカのライヴ編成の変革〜『電離層からの眼指し』
私が『大天使』に不満を持っていたのと同じように、上野さんはゲルニカのステージングに不満を持っていました。なぜかというと、静止画像的だと言っていました。上野さんはやっぱりお地蔵みたいに動かないから、全体的に動きがない、と。ハンドマイクじゃないから、私もマイクの前から動けないし。それで、上野さんも「テープでやるのも飽きてきたから」ということで、このころからゲルニカのライヴは、上野さんはシンセじゃなくてピアノになって、弦楽四重奏+私という編成になるんです。私もハンドマイクでいいと言われて、着物着たお女郎さんみたいな格好して。ハンドマイクになると歌い方も変わるんですよ、全身の力の入れ具合が違いますから。生演奏という、見せる要素が加わったので、全体的にも動きのあるステージングになって、上野さんも私も満足でした。サポートメンバーが加わるかたちになって、やっと進化した感じになりましたね。
テイチクに移籍してから変わったのは音だけじゃなくて、太田さんの詞も変わっていきました。元々ゲルニカの歌詞は、模型の作られ方とか、取り扱い説明書みたいにすごく具体的なものでした。あの人もシュールレアリスムとか好きなはずなのですが、けっしてシュールにはならないし、ダダっぼくもならない。中原中也とかダダイスト新吉(高橋新吉)とか、宮沢賢治にもシュールなものがけっこうありますけど、サーカスのブランコを「ゆやーんゆよーんゆやゆよーん」と表現する詩人のような感覚というのは、太田さんの歌詞にはなかったんです。ゲルニカでも、比べるとわかりますよね。「クラウド9」「少年の一番の友」(以上、キャリル•チャーチル作詞)、3枚目に入ってる「来たれ死よ」(小田島雄志/細野晴臣作詞)とは、あきらかに違いますからね。ところが3枚目になると、太田さんの詞もかなり変わってきました。「ノンシャランに街角で」なんて、「大油田交響楽」や「潜水艦」と違って、シャンソンの歌詞になっていますから。ファーストのころから、メンバー内や細野さん(プロデューサー)から、「ゲルニカはやってけばやってくほど先細りする、ネタが尽きる」と言われていたんです。私はゲルニカでは歌詞を書く人じゃなかったからお気楽なもので、3人の中ではいちばん客観的にゲルニカを見れる立場にいましたから。3枚目の『電離層からの眼指し』は、そこを打破していった感じがあります。シャンソンと言っても、うそくさーい感情的なものを入れていったというか。「嘘くさい」というのは悪い意味じゃないんです。「あえて感」を出してみたみたいな。例えば、ブロンディのデボラ•ハリーがエッチっぽい、ビリビリに破れたような服を着て網タイツ穿いて歌っても、本来あの人はそういう人じゃないんですよね。そういう人があえてそれをやっていて、それがサマになっているという。ちなみに、ヤプーズの「バーバラ•セクサロイド」の格好もそれに影響されて「あえて感」でやりました。
あと、「或る雨の午后」ですが、それまでの私はゲルニカでは取材の度に「素材に徹してます」と言ってたんです。ヤプーズでは自分で脚本を書いて演出もするけど、ゲルニカは女優みたいなつもりで参加していました。演出家や脚本家は上野さんや太田さんだから、「素材に徹してます」と言ってたんだけど、なんか冷たい感じがするから言わないでくれと言われたんです。でも、私には何の発言権もないじゃないですか、と言ったら、「君の意見も聞くから」と言われて、「何やりたい?」と聞かれて「『或る雨の午后』をカヴァーしたい」と言ったら、やることなったんです。私が希望して実現した、ゲルニカでは唯一の曲ですね。初期からやっていた「蘇州夜曲」も候補に上がりました。ファーストの時にも入れたいと言ってたんですが、アルファが相手だと(服部良一作品の権利元である日本コロムビアから)許可が下りなかった。それが「或る雨の午后」はテイチクだからということでオッケーが出たんです。
8½の「戒厳令」は、ファーストのデモにも入ってた曲。「夢の端々」も、もったいないから入れたんじゃないでしょうか。ゲルニカで「戒厳令」をやるのは上野さんのアイデアだったんですが、ドイツ語でやろうというのは誰の発案だったか忘れましたね。
『昭和享年』
『昭和享年』は、私の芸能生活10周年を記念して作った久々のソロ•アルバムです。1月に昭和が終わって、小渕官房長官が「平成」という額を掲げたのがその年(89年)。コンセプトが「昭和」だったから、どうしてもその年に発売を間に合わせたくて、企画書を書いて出したら、12月のぎりっぎりになんとか間に合いました。12月は年末商戦で企画モノのリリースラッシュだから、テイチクのほうもできるかどうかわからないと言っていたのですが、なんとか実現しましたね。
カヴァーの選曲は、上位何曲か挙げていって、すぐに決まった感じですね。「星の流れに」は小学校のころからの愛唱歌でした。編曲は上野さんと平沢(進)さん。懐メロっぽいオーケストラの前半は上野さんにやってもらって、後半は平沢さんにお願いしました。上野さんは原曲を解析して、あまりアレンジを変えずにスコアにしたものを、オーケストラでやっていますね。アルバムの構成は、音響的にちょっと趣向を凝らしています。「星の流れに」は、最初、SP盤の針音を入れてるんですね、わざと。モノーラルにしてこもった音にしてもらって、次(「東京の花売娘」)が疑似ステレオ。3曲目の「アカシアの雨がやむとき」で音がステレオになる。この曲は全共闘の人たちにウケていたということで、当時のニュースのSE(効果音)を入れています。「ドスンドスン」という音は、東大陥落で安田講堂が崩れた時の、公安警察がバリケード封鎖を破る時の音。あと、街頭演説の音も入っています。これもまったく思想的背景はなく、「昭和」という時代の要素を入れたかったんです。後に鈴木いづみの本の解説を書いたり、『ラスト•デイト』という阿部薫•鈴木いづみの2人を題材にしたお芝居の鈴木いづみ役も演じましたが、「アカシアの雨がやむとき」を選んだこの時は、その2人をまったく知らず、阿部薫の音も聞いていなかったので、まったく影響はありません。
平沢さんに編曲をお願いしたのは、以前、平沢さんのソロに私が参加したのがきっかけです。最初はP-MODELのコーラスで参加要請をいただいたのですが、その話がなくなって、平沢さんのソロ(『時空の水』)に入っている「仕事場はタブー」という曲で歌ってほしいと言われて参加したんです。私も大好きな曲なのですが、そこからですね。「夜が明けて」は歌謡曲の中でもアンデス調の曲で、私はサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」と坂本スミ子の「夜が明けて」でアンデス民謡こ目覚めたんですね。元々アンデスっぽい曲だから、ケーナとかを入れてアンデス民謡っぽく作ってもらいたいと思って、「リボンの騎士」といっしょにアレンジを平沢さんにお願いしました。実は私、P-MODELに「サイボーグ」というアンデス風の曲があるのをこの時は知らなかったんですけどね。そうしたら、マネージャーが間違えて、まだ誰に編曲をお願いしたらいいか迷っていた「バージンブルース」も、平沢さんのところにいっしょに送ってしまったんです。「平沢さんに『バージンブルース』だなんて、やめてよ恥ずかしい」と赤面状態だったのですが、平沢さんに「僕、この曲好きだ」「好きなキーで歌ってくれ」と言われて、事務所のラジカセで鼻歌で歌ったんです、ワンコーラスだけ。上がってきたデモ•テープは、私がまさかと思った通り、2番のイントロから演奏が始まっていました(笑)。もちろんレコーディングで歌は録り直してますけど、ここから始めるなんてずいぶん大胆なアレンジだな、と思いましたね。平沢さんはヤプーズのこともよく知っていてくれて、後にサポートで何度かギターを弾いてくださいました。「『パンク蛹化の女』が好きだ」と言っていたのが、意外でしたね。メンバーが一人減ったことがあって、その時も「僕が曲を書くから」と言ってくれて、『Dadadaism』に「コンドルが飛んでくる」と「ヴィールス」を書いてくださいました。曲が上がってきた時は、「肉屋のように」以来、さすがにどんな歌詞を書けば釣り合うんだと思いました(笑)。
「バージンブルース」のシングルカットには、さまざまな逸話があります。当時、超過密スケジュールで、ヘルニアを悪くして、それでもゲルニカとヤプーズ、お芝居の仕事やテレビのレギュラー出演をしていました。ヘルニアだから腰に激痛が走るんですよ。だから、生放送の『ヒットスタジオR&N』なんかは、2時間だけ効くという痛み止めの注射を打たれて、每週出演していたんです。それでついに倒れて、救急車で運ばれたんです。入院中、平沢さんがお見舞いに来てくれました。「バージンブルース」をシングルカットしたいと話をしたら、アレンジを変えようと平沢さんが言ってくれて、アルバムではアカペラで歌っている1番のバックに、マリンバみたいな木琴ような音を入れてもらいました。なんでこうもご縁があるのか、できあがったシングル•ヴァージョンは「ちょっと海上自衛隊っぽくしてみました」って、右っぽいんです(笑)。平沢さんと私の趣味がマッチしたんですね。「日の丸べんとう/ぶらさげて」の直前で、もっとスネアのロールが大きく入ってたらなと思ってたところが、ちゃんとそうなっていたし。アーアーって男声コーラスも御詠歌みたいになっていたし。海上自衛隊+「海ゆかば」みたいな世界になっていて、感覚が似てるのかなって思いましたね。すごく満足できるシングルになりました。
「バージンブルース」のPV(DVD『ヤプーズ計画LIVE&CLIP+2』にボーナス収録)に出てくる最初の私のヤンキーな格好は「昭和」を表しており、すれ違うペアの女の子のほうはスカートが短く、平成元年当時に女子高生の間で流行った三つ編みです。つまり、最後のシーンを含め、「昭和」と「平成」がすれ違うところを表しているのです。PVの打ち合わせで、ディレクターやスタッフとやいのやいのとゲラゲラ笑いながら、いろんなシーンを考えたのですが、私が「国会議事堂と、皇居と、(当時、六本木にあった)防衛庁と、(当時まだロシアでなくソ連だったので)ソ連大使館でロケをしたい」と言ったところ、スタッフの方々が「戸川さん、後の二つは勘弁してください」と言われたのを思い出します。衣装はもちろん全部私の自前です。その後、「バージンブルース」のPVは日本のMTVで選ばれて、アメリカのMTV祭みたいなイベントでかかったそうです。マネージャーとディレクターと私の3人に、MTVウォッチが贈られてきました。国会議事堂とか皇居の前で右翼少年っぽく歌っていたから、外国人はああいうのが好きそうだと思いましたね。
カップリングの「吹けば飛ぶよな男だが」は、もともと『昭和享年』の候補曲のひとつでした。手術がうまくいかなければ、下半身不随になるかもしれないと言われていました。それで、泥臭いタイトルですけど、「吹けば飛ぶよな男だが」(C/W)を入れることにしました。もしかしたら、最後のレコーディングになるかもしれないと思って。そのころには、平沢さんが「下町人情好き」ということがわかっていたので、このアレンジをお願いしました。映画の主題歌で、松竹買い取りだったので許可が下りて、手術の前日に霞町のスタジオに車椅子で行って歌録りをしたんです。珍しく左っぽいモチーフで、「底辺の者よ/労働者諸君よ」って、全然、底辺でもなかったのですが、たまには左右のバランスをとっとかなきゃって(笑)。
これは後日談なのですが、私は『釣りバカ日誌』シリーズにはすでに出ていたのですが、『釣りバカ日誌』のスペシャル版夏の一本立て(『釣りバカ日誌スペシャル』)というのが作られることになって、監督がその時だけ変わって、それが森崎東さんだったんです。映画「喜劇吹けば飛ぶよな男だが」の脚本が森崎東さんだったのでその時にそのシングルをあげたら、すごく喜んでくれました。私は森崎東さんの監督作も脚本作もすごく好きで、「森崎東の監督映画に出てるんだ」と、それだけでも嬉しかったのですが、いそいそとシングルを上げることができたのも嬉しかったですね。
東口トルエンズの結成
東口トルエンズは、Phewと山本精一さん(ボアダムス、想い出波止場)がやっているMOSTの山本久土くんと結成したアコースティック•パンク•デュオです。一部では、バンカラ•パンク•デュオと言われました。MOSTのメンバーとして久土くんと会った時、ふざけて「東口トルエンズなんてバンド名があったら面白い」と話をしたら、「その名前オしにくれ」と言われたんです。私がこの名前を思い付いたのは、私が新宿生まれ、新宿育ちだからですね。新宿東口の今アルタがあるところに「二幸」という総菜屋さんがあって、よく買い物に行ってたんですよ。今スタジオが入っているところが小児科の病院になっていて、しょっちゅうそこに連れて行かれて。でもそこは当時、ヒッピーの吹きだまりみたいなところで、路上に座ってシンナーを吸っている人がたくさんいたんです。ビニール袋にシンナー入れて「すーはーすーはー」やっていて、私はそれを、自分の唾がたまったんだな汚いなあと思ってたんですけど。お母さんからも「見てはいけません」「ああいう大人になっちゃいけません」と言われていました。それで東口=シンナーというイメージがあったんですね。別にシニカルな意味があるわけじゃなくて、壁に向かって話しているおかしな人とかいて、滑稽なイメージですね。久土くんがそれを「俺一人でやります」って言うから、「それはコーネリアスみたいなものなの?」って(笑)。それで初めて身内のパーティーかなんかでやったらしいんです。身内ばっかりだから「バカー」とか「引っ込めー」とか言われて「ウルセー」って。あの人はそういうのが好きらしくて。その後、普通のお客さんの前でライヴをやることになって、その時におずおずと「あのー、3曲ぐらい歌ってくれないかなー?」と頼まれて、ああもういくらでもと私も参加しました。私は久土くんのギターが大好きだったんです。すごくテクニックもあるしテンションも高いし、しっとりしてるやつも弾けるし、マリアッチみたいなのもうまい。私は「個性は技術があってこそ」って考え方の人だから、技術的な裏付けがしっかりある人じゃないと個性とは呼ばないんです。センスだけの個性って、なんか足下が危ない感じがするんですよ。その点、久土くんはすごくギターがうまい上に個性が乗っかってる人でしたから。でも、彼はエレキだったんですよ。東口トルエンズをやるにあたり「オレはアコギでやる!」というんです。アコギ歴なかったのに(笑)。最初はブチブチ弦が切れてましたよ。「純ちゃん、オレわかったよ。弦を切らないためには、強く弾いちゃいけないんだね」なんて普通っぽいこと言いながら(笑)。一人のコーナーでは、バンバン弦が切れて、慌ててしゃがんで自分で弦を張り替えているのを見て、それに対してすら客席から「カッコイイ」って声が漏れたりしてるのが面白くてね。でも、そんな初歩レベルから初めたのに、すごく吸収が早い人なんですね。
一人のコーナでは、私の「プシガンガ」とか「吹けば」「バージンブルース」なんかをやってましたね。あの人は、MOSTに入る前にいたNORaってバンドでは、ギタリストじゃなくてヴォーカルだったらしいんです。だから、歌うのを禁じられていた人が、突然ぶち切れて歌い始めたような感じでしたね。最初、私はゲストだったんですけど、だんだん出番が増えていったんです。お互い遠慮しあってて、久土くんは私にやってもらうのは悪いと思ってたらしく、私は私で、久土くんのソロに、私が出て行くのはどうかと遠慮していたんですね。
それで2人で東口トルエンズを始めたのですが、あくまで久土くん一人の弾きがなりと私が歌う時にもバックは久土くんのギター—本だけなので、クレジットでは彼の名前を先にしてもらいました。ギターとヴォーカルのユニットなのに、2人とも管楽器も好きだから、管のフレーズなんかを演奏中、間奏で「パパー」って歌ったりしてましたね。いちばん顕著なのは、「PREACH」の間奏で、久土くんがブラスのフレーズをクチでやっているところです。「ローハイド」の間奏もギターだけじゃ寂しいなと久土くんが言うので、2人で賑やかにしたらあんなふうになりました。「何がそんなに彼らを駆り立てるのか?」とネットで言われるような変なものになっていきましたが、寂しいところを補おうと2人で必死で努力した結果だったんです。
2人でやるようになってから、私の歌うコーナーがだんだん長くなっていったんです。久土くんにとても申し訳ないなと思っているのは、私は疲れるとMCが長くなってしまうんですね。だから「そうなったときは教えてほしい」と言っておいたのですが、久土くんも言いづらかったみたいで。後でファンの方に撮影してもらったDVDを観ると、私のMCが超長くて、すごく恥ずかしいんですよね。もっとサクサクやればよかった。
実は東口トルエンズには、元筋肉少女帯のピアニストで、今は特撮もやってる三柴理さんと私がやっていた、ゴルゴダの影響もあるんです。東口トルエンズの前にやっていた、戸川純バンドのさらに前に、ゴルゴダというピアノとヴォーカルのユニットをやっていたんです。『ロミオとジュリエット』とか『クレオパトラ』とか、壮大な曲で、すでく厳粛なムードの中で劇的にトゥーマッチにドラマティックな世界を目指したものでした。三柴さんは筋肉少女帯でも、キーボーディストと言わずにピアニストと言っていたぐらい、ピアノが死ぬほどうまいんです。アレンジも壮絶なほど。すごく繊細かつ大胆なピアノの人で、いっしょにやってみて「もう本当にうまい人としかいっしょにやりたくない」と思いましたね。私にとっては、修業の場みたいな感じでした。久土くんはその資料用のライヴビデオを見て、「こういうのをやりたいけど、ギターじゃムリだよな」と言っていたんです。実際、東口トルエンズでもゴルゴダでやっていた曲もやってますしね。「ピアノと違ってギターはロー(低域)がないからなー」と、足元にマイクを立ててドンドンと足で床を蹴ったりして。すごく高いところまで足が上がって、それでマイクを踏んづけちゃったこともありました。
東口トルエンズは、最初CDの話をいただいたのですが、カヴァーばっかりだし、しかもライヴだからこれをCDで出すのはキツイって自分で言ったんです。久土くんの絵面が、特にいろいろと変な顔をするところとかが面白いと思ったから、DVDで出してほしいって。彼は普通にしていればそうじゃないのだけれど。そういう顔をしないと演奏ができないと言っていました。『東口DVD』のオープニングは、東口トルエンズの出囃子に使わせてもらっている、ホッピー神山といっしょにやったゴダールのイベントのときの音源を使っています。ホッピーのピアノの「ガーン!!」という音に併せて、黒地に赤で「東口DVD」というタイトルが出るのですが、いっしょに編集作業をした丸山太郎さんが、「スナッフビデオっぽさを狙った」なんて、怖い発言をしていましたね。東口ならそういう裏っぽい感じもアリかなと、同意しました。中ジャケットに使った写真は、打ち合わせで丸山さんの事務所に行った時のもの。宅急便の袋にグシャグシャに字が書いてあるのは、ウチに来た宅急便の袋にメモをどんどん書いていったもので、ほとんどの字は久土くん。あっという間に文字で埋め尽くされて、何が書いてあるかもわからなくなったものを、マネージャーが冗談で「これ、中ジャケで使えそうですね」と言ったのがウケて、それが本当に具現化したものです。ああいうものは、綿密な計画を立てたデザインと両極をなすもので、自分のユニットではありますが、第三者的視点で高く評価したいところですね。
オリジナルではステッカーのみとなりましたが、本来は、担当の方が考えたコピー入りの帯を付ける予定だったので、今回、紙ジャケ化に際し、帯を新たに付けました。
「TEICHIKU WORKS LIVE DVD」について
「TEICHIKU WORKS LIVE DVD」には、ヤプーズ、ゲルニカ、東口トルエンズの未発表映像が入っています。ヤプーズの映像は、88年に汐留PITというホールで収録された、テイチクのロックレーベル「BAIDIS」のレーベルイベントの時の記録です。当時、ビデオ•コンサートと称して、地方のレコード店などの店頭で流すのに使われたものです。ビデオ•コンサートは『玉姫様』とか、ソロのころからやっていましたね。ちなみに、ヤプーズが所属していた「BAIDIS」というレーベルの由来は、「THIS BUY(これを買え)」をひっくり返したものだそうです。ヤプーズがイベントに出演するというのは珍しいんですよ。何々一派とか何々ファミリーと言われるのがイヤでしたから。いっしょに出たのは、SION、パーソンズほか。最初はトリでと言われたのですが、最後になるとヤプーズのファンしか残らないじゃないですか、目当てのアーティストが終わると帰っちゃうから。プロモーションにもならないし、待つだけでくたびれちゃうから、「じゃあド頭で」ということで、承諾しました。この時の衣装もすべて自前です。トルエンズもそう。ここに入っている中では、唯一ゲルニカだけ太田さんのつてのスタイリストがやっています。
ゲルニカの映像ですが、88年のこのときはスポンサーがいて、ワコールでした。東名阪のツアーのうち、東京の渋谷クアトロでは、上野さんと太田さんが「ワコールだ、ワコールだ」「まあ、やらしい」って喜んでいました。女性下着メーカーがスポンサーに付くなんて、私、役に立ってるじゃないですかと思いましたよ。
東口トルエンズの映像は、DVDを出した後の2005年のころで、『東口DVD』ではケイタ•マルヤマ•トウキョウ•パリスの敬太さんが衣装で協力してくれていますが、この映像のころは下着に下着を重ねて、その上からマフラーと手袋とレッグ•ウォーマーだけをしたり、(バレエ衣装の)チュチュに似たやっぱり下着のペチコートを着たりして、ちょっとエッチ系の格好でした。「12階の一番奥」は、一か所歌詞を間違って歌ってます。本当は「嘘を見抜くのが好き」ではなく「下手」が正解です。すみません。「鈴木建設社歌」は、映画「釣りバカ日誌」の中で、私が他の役者さんたちと合唱した曲です。私の役が鈴木建設という会社の営業三課の女子社員でしたもので。「UFO」はピンク•レディーのカヴァーですが、実はヤプーズ時代からやりたかった曲なんです。ヤプーズの場合なら、シンセを入れてやりたかったですね、ゴリゴリのテクノの音で。これはギターと2人だからシックですけど。「それでもいいわ〜」の半音のところで、黒鍵の感じを強調したくて、全体をブルースっぽくまとめてみました。「また恋したのよ」は、確か1930年代だったと思うけどドイツのモノクロ映画「嘆きの天使」の中で、マレーネ•ディートリッヒが歌った歌です。CDでは「また恋しちゃったのよ」だったのですが、それはその歌をつかった劇団の事務所の人にタイトルをいつの間にか替えられてしまったものです。何だか昭和のムード歌謡みたいになってしまって、それがちょっと、ね…。私のファンの方に撮ってもらったものを編集したものなので、久土くんが歌っているのに、私しか映っていないものもあったりします。久土くんと東口のファンに申し訳ないと思っています。お許しください。
今までとこれから
こうして振り返ると、私にとって出逢いというものは、ほとんどが音楽的必然と思えてなりません。まず、上野さんという方が、それまで女優志望でしかなく歌手になるのに消極的だった私に、騙しを入れてまで(笑)音楽をやるきっかけを与えてくださったことが、私の人生においてとてつもなく大きなことでありました。音楽的にも恩師と呼び、心より感謝しております。また、その後に出逢った数々のミュージシャンの方々、まあ、友達なんだけどね(笑)、その方々のおかげでその後の展開もあり、今も音楽活動を続けさせていただいているので、やはりありきたりな言い方で恐縮ですが、感謝の念に耐えません。さらに、レコード会社や事務所のスタッフの方々に本当にお世話になり、また今もお世話になりどおしですので、ありがたみを痛感している次第です。そして私を支持し続けてくださった、また新しく支持してくださるようになってくれた、沢山のファンの皆様がいなかったら、やはり私は音楽を続けられはしなかったし、今でも続けられてはいないので、愛聴してくださる皆様方にも深く深く、お礼申し上げます。女優というものもそうですが、こういう世界は、天井というものがありません。一生精進しても、し切るということがないのです。あらためて、頑張っていこうと心の居住まいを正す思いです。
本当にどうもありがとうございます。
2009年5月吉日
戸川純
監修:戸川純
A&R ディレクター(Director):徳田稔[テイチクエンタテインメント](Teichiku Entertainment)
A&R マネージメント(Management):赤牛戸圭一[いぬん堂]
マスタリング•エンジニア(Mastering Engineer):
柴晃浩[テイチクエンタテインメント]/TECS-24411, 24412, 24415, 24416 (①③④⑤⑨⑫⑬), TEBS-24023
弓倉和久[テイチクエンタテインメント]/TECS-24413, 24414, 24416 (②⑦⑧⑩⑪⑭⑮)
中本隆之[テイチクエンタテインメント]/TECS-24416 (⑥)
写真:三澤哲也、郷司基晴、石黑典生(N-2)、池田敬太
デザイン(Design):佐藤トリコ
ライナーノーツ(Liner notes):田中雄二
資料•写真•映像提供:N-2、いぬん觉、福田丈二、神奈川 GOTHIC UNION、長尾明浩、柳澤浩徳
映像制作:丸山太郎/TEBS-24023 (⑩〜⑱)
DVDオーサリング(Authoring):モリゴ/[TEBS-24023]
エグゼクティブ•プロデューサー(Executive producer):野口晃[テイチクエンタテインメント]、若林正伸[テイチクエンタテインメント]
スペシャル•サンクス(Special Thanks):
石黑典生、市川博子(N-2)、中谷勇、渡邊尚樹[テイチクエンタテインメント]
清水裕幸[新日本工業(株)]、塚原匡人[(株)モリゴ]、中野泰博[Shop Mecano]
Tracklist:
- Disc 1 – ヤプーズ計画
- Disc 2 – 大天使のように
- Disc 3 – 新世紀への運河
-
- 磁力ビギン
- 集団農場の秋
- 水晶宮
- 二百十日
- 少年の一番の友
- クラウド9
- パノラマ・アワー
- 輪転機
- 交通賛歌
- 電力組曲 a:ダムの唄
- 電力組曲 b:電力の道筋
- 電力組曲 c:電化の暮らし
- 髑髏の円舞曲
- 絶海
- 磁力ビギン (リハーサル/1987) (Bonus Track)
- 水晶宮 (リハーサル/1987) (Bonus Track)
- 磁力ビギン (DEMO/1988 MONO) (Bonus Track)
- Disc 4 – 電離層からの眼指し
- Disc 5 – 昭和享年
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- 星の流れに
- 東京の花売り娘
- アカシアの雨がやむとき
- バージンブルース
- リボンの騎士
- 夜が明けて
- バージンブルース (Single Version) (Bonus Track)
- 吹けば飛ぶよな男だが (Bonus Track)
- バージンブルース (Vocal Less) (Bonus Track)
- 吹けば飛ぶよな男だが (Vocal Less) (Bonus Track)
- 工場見學 (新宿ロフトライブ/1982.7.24)
- 動力の姫 (新宿ロフトライブ/1982.7.24)
- 復興の唄 (新宿ロフトライブ/1982.7.24)
- 大油田交響樂 (新宿ロフトライブ/1982.7.24)
- 夢の山嶽地帯 (新宿ロフトライブ/1982.7.24)
- 集団農場の秋 (渋谷ライブインライブ/1988.11.9)
- 輪転機 (渋谷ライブインライブ/1988.11.9)
- 潜水艦 (渋谷ライブインライブ/1988.11.9)
- スケエテヰング・リンク (渋谷ライブインライブ/1988.11.9)
- 髑髏の円舞曲 (渋谷ライブインライブ/1988.11.9)
- 銀輪は唄う (渋谷ライブインライブ/1988.11.9)
- 工場見學 (草月ホールライブ/1989.1.20)
- パノラマ・アワー (草月ホールライブ/1989.1.20)
- 戒厳令 (Demo Tape/1981)
- 潜水艦 (Demo Tape/1981)
- DVD 1 – ヤプーズ計画 LIVE & CLIP +2
- DVD 2 – 東口 DVD
- from「BAIDIS LIVE GIG ACT.1 -1988.5.29 汐留PIT-」/ヤプーズ
- from「新機軸による蘇生 -1988.7.24 渋谷クラブクアトロ-」/ゲルニカ
- from「未発表ライブ」/東口トルエンズ
- 12階の一番奥 (Digest)(2005.11.11.吉祥寺Planet K)
- 解剖室 (Digest)(2005.11.11.吉祥寺Planet K)
- 鈴木建設社歌 (2005.11.23.下北沢BASEMENTBAR)
- PREACH (2005.11.23.下北沢BASEMENTBAR)
- UFO (2005.11.23.下北沢BASEMENTBAR)
- 家畜海峡 (Digest)(2005.12.18.下北沢440)
- また恋したのよ ~「嘆きの天使」より~ (2005.12.18.下北沢440)
- 降誕節 (2005.12.18.下北沢440)
- 最后のダンスステップ (昭和柔侠伝の唄)(2005.12.18.下北沢440)